音楽雑記#1

 2018年のRichard Devineの"Sort/Lave"を聴き直していた。
異空間の宇宙人の機械の収縮/律動のようないつものノリが、Max/mspメインだった2012年の前作”RISP”から6年かけて全編モジュラーシンセによりアップデートされている。

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 Richard Devineは直接的にはAutechreからの影響が強いアーティストと言われる。緻密なビートと伸縮するようなリズムにそれは現れている。しかし、2001年のアルバム"Aleamapper"から今作"Sort/Lave"に至るまで、音響彫刻的な表現は洗練されていったものの、どのようなストーリーで織りなしていくかという感覚は驚くほど変化していない。映画的断片の寸劇が切り刻まれ融合していくスキットのような表現か、初めに設定された正確なビートが崩壊を辿る過程に宿る複雑性を魅せるかのどちらかである。時間は常に一方向へと進んで行き、回帰は滅多に起こらない。

 初期Richard Devineに影響を受けた僕は、テクノ的なダンスミュージックを知る前に、この音の生成変化の精神風景とも言える表現を強く受け継いでしまった。故に、リズムというものの役割が、メタ的にダンスの枠組みを超えるという感覚がしばしば僕の曲には宿り、これが良くも悪くも、僕の曲を強く特徴づけている。

 リズムは僕にとって、ダンスを目的とするという以上に音の生成変化の時間軸を与える要素である。時間軸の提示は漫画におけるコマ的な役割を果たす。だから時間軸性を強調するために無機的なビートを好む傾向にあるのかもしれない。さらに言うと、そのコマすらも内容と結合して、有機的に破壊とクリエイション(生成変化)したい。ウルトラヘヴンのように。

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 ここでの「生成変化」とは哲学者アンリ・ベルクソンのアイデアをもとに、哲学者ジル・ドゥルーズが発展させた概念であるが、日本では千葉雅也氏がドゥルーズの研究者として名高いだろう。千葉氏によると、生成変化の理論に見出されるのは、事物そのものというよりも、事物同士の関係が変化する様である。その点を千葉氏は、「関係の外在性テーゼ」として明確に定式化する。ドゥルーズの言葉を借りれば、Richard Devineの音響的生成変化においては、サウンド同士は常に「仮固定」され、エントロピー自然法則に従って増大する。つまり複雑性を帯びていくのであり、組織体から一度開放された音は外在化し戻ってくることはない。このカオティックな変化を計算づくで制御し切る要素が、ディヴァインのどこか数学者や科学者のようなトラックを印象づけている。

 さて、Richard Devineはしばしば「IDM」というジャンルの筆頭アーティストとされる。Warp RecordsがAIシリーズをリリースした1993年頃から、ポストレイヴサウンドの一つとして注目された。IDMとは「インテリジェント・ダンス・ミュージック」の略称であるが、必ずしもそこに「ダンス」は在り続けていない。Detroit Undergroundの作品など、2010年代以降のIDMはモジュラーシンセサイザの台頭で音は良くなっているが、それが 前述した2005年頃までの音響風景的な表現の洗練に留まってしまっているのが正直な印象である。音響風景・音響彫刻的な表現はどんどんダンスミュージックと融合したほうが発展できる筈である。ダンス・ミュージックとは、つまるところリズムのグルーヴと調和であり、時間軸を提示する要素だけではないことに、最近の僕は強く関心を向けている。

 最近の僕は、ダンスミュージックは説明の余地がある音楽という感じがしてきている。敢えて余地を残していて、オーディエンスは踊ることで、身体表現として音楽に介入して表現が完成に近づくのではないか、と思う。(無論、音楽表現は須らく「仮固定」ではあるが。)一体、ダンス、リズムとは如何なるものであるのか。気持ちの良いグルーヴを作りたいことと、それで自然に踊りたくなることは自分にとって相関している。だからダンスの身体的エクスタシーの果てに脳内に発生する何かの追求も、同じくらいの興味がある。つまり、肉体的な運動を通じてエクスタシーに到達するのか、思考の抽象的な運動が肉体的なエクスタシーを生じさせるのか、である。(この二つが止揚する概念としてのAphex Twinの提唱するBraindanceがあると思っている。)

 肉体をリアルに動かすことと、思考における抽象的な運動。後者を中心にして前者を包摂してしまうような考えはあるが、やはりそれでは捉えきれない肉体の問題がある。これは音楽に対して、解釈/咀嚼する思考的介入をするのか、ダンス=身体的介入をするのか、とも言いかえられる。音楽を受け取る行為とは究極、精神と肉体のどちらに収斂するのかという議論自体が円環的であり、無意味に過ぎないのかもしれない。「超越論的なものが生理学的ないしは経験論的なものに回収されるならもう筋トレするしかない」というはるしにゃんのツイートを思い出す。